オールド・ロンドン・ブリッジ

雑誌を読んでいたら興味深い記事がありました。それは昔の『ロンドン・ブリッジ(London Bridge)』について。これまでもブログで触れたことがありますけど、下図のように橋の上に建物があったとか、反逆者のさらし首があったという事だけで、実際の建築物に関する具体的な内容は何一つ知りませんでした。

Source; Wikipeia
ところが雑誌で目を奪われたのは、1590年頃のロンドン・ブリッジを描いたというスティーブン・コンリン(Stephen Conlin; 1959)氏の細かなイラスト。前々からオールド・ロンドン・ブリッジの上にはどのような店が建ち並び、どのような生活があったのだろうかと興味はあったのですが、それがこのイラストに表現されていたんです。これまで橋の幅員であるとか、建物については謎が残っていたそうですが、17世紀のリースに関する再発見により、礼拝堂、門、跳ね橋の塔の規模・位置、各住居の部屋の規模・位置、リース所有者、居住者の名前までもが明らかになったそうなのです。例えば1695年には住民551人: 世帯主101人(男性92人、女性9人)、妻84人、息子67人、娘87人、男性使用人75人、女性使用人82人、および下宿人等55人が暮らしていたことが分かっています。500人以上が住むとなれば、その規模は小さな町に相当します。そして、それらの情報を元に建物のレイアウトが判明し、再現したのがこのイラストだったのです。



コンリン氏のイラストで面白いのは、内部が見えるように一部をカットして描かれていること。それにより、1階のショップだとか2階のキッチン、上部の部屋や屋根裏部屋など、家の中の様子を見て当時を想像することができます。また、橋に並行して築かれた巨大なハンマービームにより、建物がせりだすように建っていたことも分かりました。さらには橋脚内、あるいはハンマービームから吊り下げられた「吊り地下室」があったことなども確認されています。 建物の構造は想像していたよりもずいぶん複雑だったんですね。

ロンドン・ブリッジには19の石造橋脚があり、各橋脚の周辺には流水により橋脚が削られるのを防ぐために船のような形をした「スターリング(Starling)」と呼ばれる水切りが付いていました。これにより2mという水位の差と凄まじい急流をつくり出したそうなんです。小舟を漕いでスターリングの間を通り抜けようとして溺れた者も多く、橋は『賢者は上を渡り、愚者は下を通るため(for wise men to pass over, and for fools to pass under)』に作られたという諺が残されています。以前、テムズ川が凍ったことを書きましたが、このように流れが制限されたことで、厳冬には橋の上流で水が止まり凍結しやすくなったんですね。

橋が建設されたのは1176~1209年。その後メンテナンスが施されなかったため、何度かいくつかのアーチが崩壊していますし、火災やら反乱などで焼失したり、多数の死者が出たことも記録されています。また1633年には女中が階段下に放置した灰から火災が発生し、橋の北側にあった家が焼失してしまったそうです。それは1683年頃まで完全に再建されることがなかったため、結果としてロンドン大火(1666)による損傷を免れることとなりました。とはいえど、それ以外は6世紀以上経っても構造的に健全だったというから驚きです。

では、当時のオールド・ロンドン・ブリッジにはどのような店が並んでいたのでしょう?個人的にはマーケットのようなイメージを抱いていたのですが、ちょっと想像と異なりました。時代によっても違うのですが、食物や土産物などはなく、オールド・ロンドン・ブリッジの歴史後半になるまでエールハウス(酒場)もなかったそうなのです。14世紀の最初の記録によれば、店は小間物屋、手袋製造、刃物屋、矢・弓師が多く占めていた。中でも小間物屋が一番多く、紙や羊皮紙、帽子、下着、小物など、現代よりもより幅広い商品を扱っていたと書かれてあります。15世紀になると、小間物屋以外の店は衰退し、さらに多くの小間物、織物、食料品店に取って代わられたそうです。さらに17世紀後半には文房具やピン、天秤や旅行用カバンなど多種多様なものを販売する店が増えたと書かれてありました。家賃は特に北端で高かったようですが、有名な橋ですので人通りも多く、店の知名度がすぐ広まるという利点があったんですね。

最初は橋に並行して両側におそらく2階建ての建物が並んでいて、一階に店舗、2階に部屋やホールがあったそうです。改築が行われるにつれて、それは3~4階になり屋根裏部屋も増え、道路上をまたいで左右の建物が結合する「クロス・ビルディング(cross building)」と呼ばれる建物へと変化したのだとか。それにより強風に耐えうる強固な建物となり、かつスペースが増えるという利点があったんですね。とすると、橋を歩くのはモール内にいるような感覚で、店に目を奪われ、橋とは気付かなかったかも知れません。建物群は途切れて建っていたようですが、おそらく橋の部分はトンネルのように薄暗かったことが想像できます。

さて、コンリン氏のイラスト左側に見える建物は、「ナンサッチ・ハウス(Nonsuch House)」と呼ばれた4階建ての中世の礼拝堂だそうです。2つの正面はテムズ川に面し、屋根の四隅には黄金の風見のついたドームがありました。側面には華やかな装飾が施され、南側には2つの日時計があったそうです。その一つには『時と潮は人のために留まらず(Time and tide stay for no man)』の文字が記されていたのだとか。ナンサッチ・ハウスはもともとオランダで建設されたもので、バラバラに分解してロンドンに送られ、1579年に組み立て直されたそうです。建物には鉄釘を使用せず木製ペグのみが使われていたのだとか。イラストでは見難いですが、のちに中世の礼拝堂の右側は住宅へと改造されています。因みに「ナンサッチ」の名はかつてロンドン郊外に存在した「ナンサッチ・パレス」に由来しているようです。

Source; Wikipeia
Depiction of Nonsuch House in Old and New London, Illustrated (1873)
最終的に、幅員の拡大、水上交通改善、不動産市場の衰退や修理費の問題等もあり、賛否両論ありましたが、オールド・ロンドン・ブリッジ全ての家屋は1757~1761年に全て取り壊されてしまいました。その後、橋の幅員が拡張され、新たな橋が架けられるまで利用されていたようです。今では失われてしまったオールド・ロンドン・ブリッジですが、記念碑などは特に残されていないんですよね。でも実は、その残存物はいくつかひっそりと残っているんです。そのうちの1つがローワー・テムズ・ストリート(Lower Thames Street)にある聖マグナス教会(St Magnus)の塔に組み込まれたアーチ道だそうです。

Source; Wikipedia
St Magnus the Martyr and Adelaide House from the top of The Monument.
それは1763年から1831年にオールド・ロンドン・ブリッジが終焉を迎えるまでの間、橋への主要な歩行者用入口として利用されていたものだそうです。以前、ロンドン・ウォール(London Wall)を見て歩いていた時に急に雨が降りだして、たまたま雨宿りした場所がこのアーチでした。当時は何も知りませんでしたが、教会の中庭にはオールド・ロンドン・ブリッジの遺物が何気に残されているそうです。私が見たのは、アーチ下にあったAD 75年に遡る古いローマの埠頭の一部。かなり古いですが、ガラスで保護されるでもなく屋外、アーチの下にあります。これは1931年に近くにあるフィッシュ・ストリート・ヒル(Fish Street Hill)で発見されたものだそうです。つまり2000年もの間に河岸がどれだけ移動したかを物語っている訳なんですね。もし、オールド・ロンドン・ブリッジが残されていたとしたら、タワー・ブリッジ(Tower Bridge)よりも注目を集めていたでしょうね。個人的には一番見て見てみたかったかも。



さて、今年は暖かくなったらロンドン大火を逃れて残っている建物を見て回ろうかと思っていたのですが、残念ながら世の中こんな非常事態になってしまい、それはまたいつか平和な日常が戻ってきてからになりそうです。皆さんの安全と早く終息することを願って。。。

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