ウィリアム2世。

何か偉業を成し遂げた人物の子どもというのは、期待される割に影が薄く残念なことが多い、と私は勝手に思っている。もちろん一概には言えませんけどね。ウィリアム2世(William II, the William Rufus; c.1056 - 1100)もその一人だ。1066年にイングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)したウィリアム1世は、妻マティルダ・オブ・フランダースとの間に少なくとも9人の子を儲け、ウィリアム2世はその4人息子のうちの3番目にあたる。パパ、ウィリアム1世はフランス遠征中に落馬して受けた傷が原因となり1087年に亡くなりました。そうなると後継者ですよね。長男ロベール2世はイングランド王にはなれなかった。それは、きっとパパに反抗的で信頼されていなかったからかも。ウィキちゃんによると、彼は夢想家で気まぐれ、怠け者、武術はそこそこながらリーダータイプではなかったという。とは言うものの、ノルマンディーの後継者に指名されました。もちろん本人は、イングランド王になるという野望も抱いていたようですけどね。そして、次男坊は早死にしているので、3男坊のウィリアム2世がイングランド王となったのです。

ウィリアム2世は兄に比べて我が強いタイプ。赤ら顔だったため(鬚が赤毛だったという説もある)ラテン語で「赤」を意味するルーファス(Rufus)と呼ばれ、並みの身長で体格の良い人物だったようです。女性のような長い髪、高価で派手な服を好み、飲んだくれの生活を送ったとも言われています。父が信頼していた大司教が亡くなると、自分のやりたい放題だったようで、周りの人からは嫌われ、教会とは対立したそうです。彼の評判は決して良くない。なにせ歴史を記録したのは、ウィリアム2世が敵視した教会関係者ですからね。

Source; Wikipedia
Death of William Rufus
lithograph by Alphonse de Neuville, 1895

 
そして彼は1100年の昨日(8月2日)亡くなりました。死因は狩猟中に部下の放った矢に当たったため。えっ、それが死因?思わずそう思ってしまった。あっけない。。。それが事故によるものか故意によるもの(弟ヘンリーの陰謀説もある)かは謎のままだそうですが。。。彼の遺体は農家のカートでウィンチェスター大聖堂(Winchester Cathedral)へ運ばれて、翌日に葬儀もなく埋葬されたそうです。嫌われ者の最後はお粗末だ。但しイングランド王でしたからね、そこは尊重されて大聖堂の塔の下に埋葬されたそうです。神を嫌った彼、大聖堂に埋葬されて満足だったのだろうか?因みにウィリアム2世君は同性愛者と考えられており、独身で子供もおらず、末弟のヘンリー1世が王位を継承しました。とにかく昔にはありがちですが、この兄弟たち、ライバル同士、不仲だったようですね。
参照;
  • https://en.m.wikipedia.org/wiki/William_the_Conqueror
  • https://en.m.wikipedia.org/wiki/William_II_of_England
  • Divorced, Beheaded, Died..., Kevin Glide, Michael O'Mara Books Limited
  • The Book of Kings & Queens of Britain, G.S.P. Freeman-Grenvill, Wordsworth Reference
  • Gwynne's Kings and Queens, The indispensable History of England and Her Monarchs, N.M. Gwynne, Ebury Press

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