キリクランキー

夏目漱石『永日小品(えいじつしょうひん)・昔』の続き。後半にこう書かれています。
略 主人は横をふり向いて、ピトロクリの明るい谷を指さした。黒い河は依然としてその真中を流れている。あの河を一里半北へ溯るとキリクランキーの峡間があると云った。
高地人(ハイランダース)と低地人(ローランダース)とキリクランキーの峡間で戦った時、屍が岩の間に挟って、岩を打つ水を塞いた。高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変えて三日の間ピトロクリの谷を通った。
自分は明日早朝キリクランキーの古戦場を訪おうと決心した。崖から出たら足の下に美しい薔薇の花弁が二三片散っていた。
今日はピトロッホリーではなく、キリクランキー。そう。スコットランドにはキリクランキー(Killiecrankie)というところがあります。17世紀にキリクランキーの戦い(Battle of Killiecrankie)の舞台となった有名な古戦場です。その戦いはなんじゃらほい?スクール・ツアーに一人参加した私が、そんなちんぷんかんな感じで訪れた場所です(苦笑)。



以前、オリバー・クロムウェルの死後、息子のリチャード・クロムウェルが跡を継ぐも共和政が崩壊。再びチャールズ2世を国王に迎えて王政復古したという話をしましたが、チャールズ2世の弟君がジェームズ2世でした。兄ちゃん(チャールズ2世)には男子の跡継ぎがなく、弟であるジェームズ君が王に就いた訳です。実はジェームズ君、ジェームズ2世だけではなく、ジェームズ7世(James VII of Scotland and James II of England; 1633-1701)でもあった。え、どういうこと?つまりイングランド・アイルランド王としてはジェームズ2世であり、スコットランド王としてはジェームズ7世だったということです。イングランド・スコットランド・アイルランドの王だったんですね。

ところがジェームズ君、カトリック信仰の絶対王政を目論んだため、イングランドの支持を失い、王位を追放されることとなります。王国はジェームズ君の娘メアリー2世とその夫ウィリアム3世が共同で統治することとなり、いやいやいや、ジェームズ君こそが真の王じゃないの?というスコットランドの人々はジャコバイトと呼ばれました。そこで1689年、メアリー&ウィリアム派とジェームズ派のジャコバイトが戦うことになるのです。それが「キリクランキーの戦い」。ジャコバイトは敗北しました。ふ~ん。そういう戦いの場だったのかぁ。。。

今頃になって、あの時見た場所の歴史を知った私でした。夏目漱石は果たしてキリクランキーへ行ったのでしょうかね?

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