トラベル・ライティング
以前、ジュリア・ロバーツ主演で映画化もされた世界的ベストセラー『Eat Pray Love(邦題;食べて、祈って、恋をして)』。ちょうど話題になった頃、インドの友人が誕生日にこの本をプレゼントしてくれました。これは著者エリザベス・ギルバートが自らの体験をつづったもので、人生をリセットするために出掛けた1年間の旅の中で、食べて、祈って、恋をして、直面するあらゆることを探究した作品です。確かに、何かあると旅に出たくなる。現実逃避したくなる。自分探しに行きたくなる。違う世界を覗きたくなる。新たなことを体験したくなる。異空間に浸かりたくなる。今はコロナで思うように旅には出かけられませんが、いつの時代にも旅は好奇心をくすぐるものです。
昔の人は、どのような旅をしたのだろう?イギリスの旅行記を書いた昔の作家たちを並べてみました。個人的に同じ女性という立場から、女性旅行作家セリア・ファインズ(Celia Fiennes; 1662‐1741)が気になります。女性にとって私的な旅行がまだ珍しかった時代に、家が裕福だったってこともありますが、きっと好奇心、冒険心、勇気のある女性だったんですね。いずれの人物もそれぞれの異なる視点から、自分たちが訪れた町や村などについて触れているようで、違う時代の旅について読んでみるのも面白いかもしれません。
- ジョージ・ヘンリー・ボロウ(George Borrow; 1803-1881);ヨーロッパを旅した経験を基に小説や旅行記を書いたイギリス人作家。彼は放浪の過程で、ヨーロッパのジプシーと親密な関係を築いた。『The Bible in Spain』は、カルロス内戦中の1835~1838年に聖書のセールスマンとして働いていたボロウのスペイン旅行に関する内容のもの。『The autobiographical Lavengro』は回想録と小説のジャンルの中間に位置する作品で、ジプシーと共に暮らし学んだ青年の旅をたどっている。ラヴェングロー(Lavengro)とは、ロマ二語(ジプシー語の総称)で「ワード・マスター(word master)」を意味する。『The Romany Rye』は『Lavengro』に続く自伝的な小説で、タイトルはロマニ語で「ジプシー紳士」を意味する。
- ジェームズ・ボズウェル(James Boswell, 9th Laird of Auchinleck;1740-1795);スコットランド、エディンバラ生まれの伝記作家、日記作者、弁護士。英文学者サミュエル・ジョンソンについて書いた伝記『サミュエル・ジョンソン伝』は伝記文学の傑作と評される。ボズウェルが遺した日記『The Journal of a Tour to the Hebrides(1773)』も日記文学として評価されている。彼はイギリス人の友人サミュエル・ジョンソンとスコットランド・ハイランドと西部の島々を巡った。エディンバラを出発し、スコットランドの東海岸・北東海岸を巡り、セントアンドリュース、アバディーン、インバネスを通過。その後、ハイランドへ渡り、スカイ島、コル島、マル島など、ヘブリディーズ諸島のさまざまな島で数週間過ごした。ジョンソンは1775年1月18日にスコットランド西方諸島への旅を発表。余談だが、アーサー・コナン・ドイルの『ボヘミアのスキャンダル(A Scandal in Bohemia)』の中でシャーロック・ホームズは、ワトソン博士をボズウェルに例え「ボズウェルあってこその私だ(I am lost without my Boswell.)」と相棒であるワトソンとの絆の深さを語っている一節がある。
- ジョン・ビング(John Byng;1743‐1813);ベッドフォードシャー、サウスヒル(Southill, Bedfordshire)に、3代トリントン子爵ジョージ・ビングの次男として生まれる。彼の生涯はあまり知られていないが、1781~1794年までのイングランドとウェールズを馬で旅した日記『The Torrington Diaries: Containing the tours through England And Wales of the Hon』が知られている。日記の中で訪れた建物や風景、出会った人々について記述している。彼はよく批判的で無礼な態度をとることはあったが、政治問題を強く掲げることはなかった。
- ウィリアム・カムデン(William Camden;1551-1623);ロンドン生まれ。クライスト病院、セント・ポールズ・スクール、オックスフォード大学に通う。1575年からウェストミンスター学校で教えたが、古物研究のために旅をして休暇を過ごした。初版の『Britannia (1610) - the first county-by-county survey of Britain』は、1586年にラテン語で出版。1623年に亡くなった後、おそらくカムデンの指示により、フィレモン・ホーランド(Philemon Holland)によって1607年の最終版が翻訳されている。それは、イギリス諸島全体の地形調査で、カウンティ毎に初めて出版されたものだった。特定の旅に関する記述はないが、時折、カウンティの主要な川を観察している。
- ウィリアム・コベット(William Cobbett; 1763-1835);イギリスのジャーナリスト、愛国者。サリー州ファーナム(Farnham, Surrey)生まれ。父は農家の出身だが独学で財をなし、旅宿も経営する自作農だった。コベットは1784~1791年まで軍隊に所属。後にジャーナリストとしてのキャリアを開始し『ピーター・ポーキュパイン(Peter Porcupine)』紙を発刊、フランス政府とアメリカ民主党を批判した。1800年に帰国し、1803年から亡くなるまで週刊新聞『ポリティカル・レジスター(Political Register)』を発刊したが、地方の英国人の窮状をテーマとする彼自身のジャーナリズムの仕事も行い、町や村での出来事を観察しながら馬で国中を巡った。『ルーラル・ライド(Rural Rides)』は、1822~1826年まで最初に『ポリティカル・レジスター』に連載し、1830年に本が出版された。
- ダニエル・デフォー(Daniel Defoe; 1660-1731);ロンドン・ストークニューイントン(Stoke Newington in London)の肉屋の息子として生まれる。『ロビンソン・クルーソー』を書いたことで有名。イギリスの著作家、ジャーナリスト。1703年、高教会派のトーリー党を風刺したパンフレットを書いたために逮捕、さらし者にされ投獄された。 後にトーリー党とホイッグ党両方のパンフレットを書いた。 彼の小説には他に『キャプテン・シングルトン(Captain Singleton; Captain Singleton1720)』や『モル・フランダース(Moll Flanders; 1722)』等もある。また、3巻から成る『大英帝国全土旅行記(A Tour thro' the Whole Island of Great Britain)』は彼の旅の記録で、1724~1727年の間に出版された。
- セリア・ファインズ(Celia Fiennes; 1662‐1741);ウィルトシャー、ニュートン・トニー(Newton Toney, Wiltshire)生まれ。生涯独身。17世紀の終わり、イギリス中を馬に乗って旅したイギリスの旅行作家で、その記録は社会経済史家にとって重要な情報源となっている。大佐(colonel)の娘、イングランド内戦の議会指導者の孫娘だった彼女は、1691年まで家族の邸宅に住み、その後ロンドンに住むようになった。多くの小旅行をし、1697年と1698年にイングランド北部とスコットランドを長旅し、6週間で1,000km(600mile)以上を旅した。彼女は特に都市生活、産業、そして国内で成長する物質的繁栄に目を向けた。旅行は自身の健康改善や親戚の訪問という目的も兼ねていたが、主に好奇心から始めたものだった。採石場、鉱山、産業を観察し、地元の食べ物や飲み物を試飲し、訪れた温泉とそこへたどり着くまでの道について記述している。また、最高級のバロック様式のカントリーハウスの多くを見て回っている。旅行の記述は1702年に旅行がほぼ終了した後に書かれている。日記の完全版『Through England on a Side Saddle in the Time of William and Mary』は1888年に出版された。
- ジェラルド・オブ・ウェールズ(Gerald of Wales;c.1146–c.1223);ウェールズ南西部ペンブルックシャー、マナーバー(Manorbier, Pembrokshire)生まれ。本名はジェラルド・デ・バリ(Gerald de Barri)。ウェールズとノルマン混血の家系。彼の父はウェールズの主要貴族、叔父は聖デイヴィッドの司教であり、彼は宗教教育を受けた。1184年にヘンリー2世(King Henry II of England)の牧師となる。1184年、アイルランドへの遠征でジョン王子(Prince John)に同行したことで、最初の本『Topographia Hibernica(1188)』の出版に至る。 1188年、彼はカンタベリー大主教(the Archbishop of Canterbury)、エクセターのボールドウィン(Baldwin of Exeter)に同行、第3回十字軍を募集するウェールズの旅に参加し『the Itinerarium Cambriae(1191)』と『the Descriptio Cambriae(1194)』を執筆した。
- ウィリアム・ギルピン(William Gilpin;1724–1804);カンバーランド(Cumberland)生まれ。1748年にオックスフォード大学を卒業して牧師になった。彼の旅行記は、イングランド西部の湖水地方を網羅した一連の観察と、ボールダー(Boldre)へ移った後の森の風景に関する『Remarks on Forest Scenery』だったが、ワイ川の観察『Observations on the River Wye』を始め、1782年に初出版された。訪れた場所の歴史や出会った人々についてはあまり語らず、代わりに美学の議論を含め、「絵のような美しさの原則」を発展させた。イラストは彼が旅行中に描いた彼自身のスケッチに基づいており、廃墟の城や教会に焦点を当てた。彼は後のランドスケープ・アーキテクト(景観)に影響を与えたが、彼自身の関心は、常に手つかずの自然景観に見られる美しさにあった。
- ジョージ・ヘッド(George Head;1782-1855);ケント、ハイアム(Higham, Kent)生まれ。1831年に騎士を務めた彼は、チャーターハウスで教育を受けた。1808年に軍に加わり、ポルトガル、スペイン、フランスで対ナポレオンに対するイベリア半島戦争に参加、その後カナダでの兵役に従事した。 1829年にカナダの回想録を出版し、それはイギリスに関する2冊を含む旅行本へとつながった。『A Home Tour through various parts of the United Kingdom(1837)』。『A Home Tour through the Manufacturing Districts(1835)』は続編で、マン島、西ハイランド、ハイランド、チャンネル諸島、アイルランドを対象としている。
- ポール・ヘンツナー(Paul Hentzner; 1558‐1623);ブランデンブルク、クロッセン(Crossen, Brandenburg)生まれのドイツ弁護士。1596年、38歳で若いシレジアン貴族の指導者となり、1597年に一緒にスイス、フランス、イギリス(エリザベス朝時代)、イタリアを巡る3年間の旅に出た。1600年ドイツへ戻った後、1612年にラテン語によるこの旅の記述『Itinerarium Germaniae, Galliae, Angliae, Italiae, cum Indice Locorum, Rerum atque Verborum』をニュルンベルクで出版した。だいぶ後になって、ホレス・ウォルポール(Horace Walpole)が、イギリス旅行記の部分をリチャード・ベントレー(Richard Bentley)の翻訳により、翻訳者のメモと共に1797年に出版した。
- サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson; 1709-1784);スタッフォードシャー、リッチフィールド(Lichfield, Staffordshire)生まれ。父は小さな書店主だった。彼はジョンソン博士とも称され、エッセイスト、評論家、辞書編集者など、さまざまな方法で英文学の発展に貢献した。少年期にわずらった結核により、片耳が聞こえず、片目は見えず、首には瘰癧(るいれき/リンパ節結核)があったとされる。オックスフォード大学で学ぶが、家が貧しかったため中退し、故郷に戻り教員になった。その後、教員としても作家としても苦労した。1755年に最初に発行されたジョンソンの英語辞典は、最初の英語辞典ではなかったが、単語の使用法とその変化を体系的に記録した最初の辞書だった。1763年、ジェイムズ・ボズウェルと親しくなり、後に共にスコットランドを旅した。ジョンソンはその旅行について『スコットランド西方諸島の旅(A Journey to the Western Isles of Scotland; 1773)』に記している。
- カール・モリッツ(Karl Moritz; 1757-1793);プロイセン(Prussia)王国生まれ。1782年にプロイセンの若い牧師として僅かな予算で旅し、イギリスの17世紀の詩人ジョン・ミルトンによる『失楽園(Paradise Lost)』のコピー以外はほとんど持たずにイギリスを訪れた。彼はミルトンの地でそれを読むつもりだった。イギリスへ到着したのはフランス革命直前の年で、彼はイギリスの相対的な自由を賞賛した。 彼の旅の記録は友人への一連の手紙として書かれたもので、ドイツ語から翻訳されて1795年に出版された。前半はロンドンでの滞在について記述している。その後、徒歩でリッチモンド、ウィンザー、オックスフォード、バーミンガムを通り、ピーク・ディストリクトへ行き、コーチでロンドンへ戻った。
- トマス・ペナント(Thomas Pennant; 1726-1798);ウェールズの地主の家に生まれる。レクサム・グラマー・スクール(Wrexham Grammar School)、フルハム(Fulham)やオックスフォード大学(Oxford University)で教育を受けた。博物学に熱烈な関心を持ち、1766年にイギリス動物学の第一部を出版した。スコットランドの旅は彼の最初の旅行記であり、ウェールズの旅行とチェスターからロンドンへの旅も書いている。『スコットランドの旅(A Tour in Scotland; 1769)』では、北ウェールズのダウニング発着で完全な旅について記述しているが、魅力の多くは、1745年にジャコバイト弾圧による崩壊直後のスコットランド・ハイランドの詳細な記述にある。また、ペナントはサザーランド(Sutherland)やケースネス(Caithness)に至るまでを旅をし、はるかに詳細な場所の記述を提供している。彼は特に古物と博物学に興味を持っていたが、産業革命によりハイランドがどのように変化していたかも指摘している。 チェスターからロンドンへの旅は主に1780年の旅に関するものだが、ノーザンプトン、ルートン、エンフィールドを経由して少し東に向かったノーサンプトンシャーからロンドンへの以前の旅も含んでいる。ペナントは新産業よりも古物に興味があり、風格のある家の肖像画コレクションについても長い記述を残している。また、当時の新しい運河システムが景観に与える影響についてコメントしている。彼は通過した町をかなり詳細に説明しているが、いずれの旅も大都市ロンドンについては何も語っていない。
- チャールズ・ウェスレー(Charles Wesley; 1707-1788);リンカンシャー、エプワース(Epworth, Lincolnshire)生まれ。1707年にオックスフォード大学で「ホーリークラブ」を設立、すぐに「メソジスト」と呼ばれたが、兄ジョンがそのリーダーとなった。1735年、チャールズはイングランド国教会の執事として叙階され、アメリカのジョージア州で短期間働いた。日記はここから始まるが、伝道者、また、イギリスで最も偉大な賛美歌作家として天職をみつけたのは1738年のことだった。日記は1756年までの20年間のほとんどを網羅している。主にロンドンを拠点としたが、イギリスとウェールズを常に旅していた。ウェスレーが主導した1740~50年代の福音主義派の伝道集会が、産業革命に伴う暴動などの抑制に大きな役割を果たしたと言われている。晩年、ウェズリーの健康状態は悪く、旅行が減り、ロンドンのメソジストのリーダーを務めた。
- ジョン・ウェスレー(John Wesley;1703-1791);弟チャールズ同様リンカンシャーのエプワース(Epworth, Lincolnshire)生まれ。彼らの父はイングランド国教会の司祭だった。大学を卒業してイングランド国教会の司祭となり、アメリカ・インディアンへの宣教を志して植民地アメリカに渡るが、ほとんど満足な活動さえ行えないまま失意のうちに帰国した。アメリカのジョージアへ行く途中で、モラヴィア兄弟団(共通の体験、交わり、分かち合いを回復することにより教会の革新を目指す共同体運動の一つ)の存在を知り、モラヴィア兄弟団の影響を強く受けている。イギリスに戻ると、説教者として国内を旅行し始めたが、1739年にモラヴィア兄弟団と決別し、弟とジョージ・ホイットフィールドと共にメソジスト教会を結成した。彼は50年間英国を旅し、時には海外も旅をした。彼の完全な日記は26巻に及ぶ。
- アーサー・ヤング(Arthur Young;1741-1820);サフォークの牧師の息子として生まれる。1761年にロンドンへ移り、作家として4つの小説を出版したが、1759年に父親が亡くなりサフォークへ戻った。1767年にエセックスの農場経営者となり、新たな方法を試し、その結果を『A Course of Experimental Agriculture(1770)』として出版した。彼は農業改善の宣伝者となり、人生のほとんどをイギリス、ウェールズ、アイルランド、フランスを旅して過ごした。 彼の旅のは農業と幅広い社会・政治発展の両方における変化を説明する書籍のシリーズ化のためにあった。彼は『 the Annals of Agriculture』を編集し、1784~1809年の間に45巻を出版して新農法を促進した。 1793年に政府は、英国の食糧供給を脅かしていると思われるフランスとの戦争への対応として、農業委員会(the Board of Agriculture)を設立した。ヤングはその秘書となり、さらに主要な農業調査を指揮した。
参照;
- https://www.visionofbritain.org.uk/travellers/
- https://www.britannica.com/
- https://wikipedia.org
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