スタウァブリッジ・フェア

以前、コルチェスター(Colchester, Essex)の毛織産業について調べていた時、羊毛はスタウァブリッジ・フェア(Stourbridge fair)で購入されたと書いてありました。そこで、気になった『スタウァブリッジ・フェア』について調べてみました。


Fair Wagon
Source; https://www.cam.ac.uk/research/news/the-800-year-old-story-of-stourbridge-fair

初め、単純にスタウァブリッジという町で開催された大規模フェアだと思っていました。実際、バーミンガムの西、ブラックカントリーの外れにスタウァブリッジ(Stourbridge)という町が存在します。そこにはスタウァ川が流れ、地名はその名の通り「スタウァ川に架かる橋」に由来します。ところが、『スタウァブリッジ・フェア』は全くその場所とは関係なく、ケンブリッジ近傍のスタウァブリッジ・コモン(Stourbridge Common)と呼ばれる場所で開催されていました。そこはスタウァ川ではなく、ケム川(River Cam【kæm】)が流れ、地名は「牛のための橋」を意味する『Steer Bridge』に由来するそうで、古くは『Stir-Bitch、Stirbitch、Sturbridge』等様々なスペリングで示されていました。


もともと、1199年にジョン王(John, King of England; 1167-1216)が、ハンセン病患者たちの収入を支援し、路上での物乞いを止めさせるために、彼らの救護院でもあったレパー・チャペル(Leper Chapel, Cambridge)で3日間のフェア開催を許可したことに始まりました。そして、1211年9月にスタウァブリッジ・コモンで最初のフェアが開催されると、フェアはすぐに恒例イベントとなり、毎年8月24日から9月12日の間に開催されるようになりました。13世紀末、レパー・チャペルが閉鎖されても、ケンブリッジがフェア開催の権利を引き継いだそうです。

Leper Chapel, Cambridge
Source; Wikipedia

このフェアが栄えた理由は水上アクセスにあります。イースト・アングリア地方だけでなく、ケンブリッジに流れるケム川を通し、ロンドンや他の地域から水上輸送が可能であったこと、そして海外からはキングス・リン(King's Lynn)、ウーズ川(River Ouse)を経由して商人たちが大勢やって来たといいます。年が経つにつれてブースはますます充実したものとなり、フェアは中世から19世紀にかけ大規模なフェアへと発展しました。

The Great Ouse River

『ロビンソン・クルーソー』を書いたことで知られるダニエル・デフォー(Daniel Defoe; 1660-1731)は、1720年代にスタウァブリッジ・フェアを訪れ、その様子を『英国旅行記(Tour through the whole Island of Great Britain)』に記しました。その中で、「国内はもとより、世界最大のフェア」と賞しています。そんな世界一とも謳われたフェアにはどのような商品が並んでいたのでしょう?

フェアの目玉は羊毛とホップ。イングランド北部でホップ(主にケントやサリーで栽培)が育たなかったため、莫大な量のホップがウールを運んできたボートに乗せて北へ帰っていったそうです。他に、鍋やフライパン、衣服や繊維、バスケットやマット、馬や馬蹄、ピッチやタール、石炭や木炭、鉄や木材、本や楽器などが取引されていました。また、東ヨーロッパからは毛皮、琥珀。地中海の貿易業者はシルク、スパイス、ガラス製品、宝石、高級武器。国内からは革、石炭、鉄、牡蠣など人気の高い商品。地元からはポット、バスケット、塩、チーズ、バターなどを販売しました。また最終日には馬の見本市もあったそうです。フェアには商人たちだけではなく、地元周辺住民や観光客も訪れ、魚やパン、ワインやエールを食して行きました。最も有名だったのはオイスター(牡蠣)だったそうで、「オイスター・ロウ(Oyster Row)」という通り名が今も残されているそうです。大勢の人が行き交い、活気あるフェアでは、香辛料、香り高いビールやブランディー等の様々な香りが混ざり、漂っていたに違いありません。

その他にも、おもちゃ屋、人形劇、演劇、演奏など、たくさんの娯楽も行われていたそうです。 つまり中世のフェアは、現代でいうショッピングモールや遊園地などの要素を兼ね備えていた訳です。中にはパートナー探しや売春婦たちの客引きなどもあったでしょう。フェアでは大きなお金が動いていました。治安を目的に、パイ・パウダー・コート(Pie-powder court)が設けられており、行商人たちの金銭トラブルや、泥棒など即決で裁定したそうです。よくマーケット・プレイスでピロリー(Pillory)やストックス(Stocks)を見掛けるのはそのためでしょうか。

また、ロンドンとケンブリッジとを結ぶハックニー・コーチ(hackney coaches)と呼ばれる馬車も走り、人々を運んでいたそうです。ケンブリッジの大学は夏休みで、生徒数はいつもより少なくても、町は混んでいて、納屋や馬小屋ですら宿になっていたとデフォーは伝えています。また、町に残る大学生のために、フェアでは本や文具、機器を購入する機会もありました。実際、アイサック・ニュートン(Sir Isaac Newton; 1642-1727)が在学中にフェアを訪れ、『ユークリッド原論(Euclid's Elements)』の初版を購入したことが知られているそうです。

17~18世紀には、1665年のペスト流行や1666年のロンドン大火について記した日記で知られるサミュエル・ピープス(Samuel Pepys; 1633-1703)や、エドワード・ワード(Edward Ward; 1667-1731)などがフェアについて記したことで、全国的に広く知られることとなりました。
残念ながら、イングランド一とも世界一とも謳われた『スタウァブリッジ・フェア』は、18世紀の終わりまでに衰退してしまいました。主な要因は、時代の流れと共に商人が店舗を構えるようになったこと、鉄道や道路の発達により、運河の重要性が減少したことにあります。フェアはビジネスではなく娯楽として残りましたが、ケンブリッジの町に娯楽が増えたこともあり、その魅力も失われていきました。1931年に開催された最後のフェアには、開始時点でベビーカーを押した女性2人とアイスクリーム販売人、警官2人という寂しいものだったようです。昔の繁栄が嘘のようですね。。。

先月末、私も地元恒例のメディイーバル・フェアに出掛けてきました。いつも地元産蜂蜜や手作り品を購入します。大規模でなくても、やはり、こういうイベントが地域からなくなることを考えるとちょっと寂しいかな。。。

 
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