廃村。ハングリー・ベントレー

『ハングリー・ベントレー(Hungry Bentley)』とは、「腹ぺこベントレー君」ではなく、イギリスのダービーシャー(Derbyshire)にあった歴とした中世の村の名前です。変わっていて面白い地名ですよね。『ベントレー』というのは、古英語の「beonet(bent grass)+leah(a clearing)」に由来し、「はいこぬかぐさ(這小糠草)」とかいう草が生えている土地・場所を意味するそうです。そして、『ハングリー』という珍しい呼び名は、痩せた土地や住民の食糧の貧しさを示すと言われています。因みに同様の理由で『ハンガー(Hunger)』や『プア(Poor)』が使われている場合もあります。ハングリー・ベントレーの場合、ドゥームズデイブック(Domesday Book)には単にベントレーと記されており、近くにフェニー・ベントレー(Fenny Bentley)と呼ばれる他の村があることから、混同されないように付けられたという経緯もあるようです。【Beneleie; DB、Hunger Bentley; 1431】

1066年のノルマン・コンクエストの後、この土地はヘンリー・ド・フェラーズ(Henry de Ferrers; -1100)という人物の土地となりました。その後、所有権は何度か移っており、1586年にはハングリー・ベントレーを所有していたベントレー一族のエドワード・ベントレーという人物が反逆罪で有罪判決を受けたと記録に残っているそうです。また、1801年には10家屋、約80人の住民がいたとも。
結論から言うと、ハングリー・ベントレーがなぜ廃村となったのかは不明だそうで、ダービーシャーで最も『過疎化した集落(depopulated settlement)』と呼ばれているのだとか。凶作、耕作から牧畜への移行、気候の変化、黒死病など、どの要因も捉えられるようですが、現在は経済的な理由で村が放棄されたのではないかと考えられているそうです。

ハングリー・ベントレー跡地
Source; Wikipedia
The site of Hungry Bentley village by Alan Murray-Rust

写真(上)では何もないように見えるハングリー・ベントレー。ですが、よーく見ると地面が凸凹しているのが分かりますよね。それは人々がそこで暮らしていた証。写真のそれが何を示しているのか私にはわかりませんが、 中世の村は、広くて(柵などで)囲われていない開放耕地(open fields)を基盤とする共同の農業システムによって支えられていました。これらの広いフィールドは、さらに個々のテナントに割り当てられたストライプ(strips; land, selion ともいう)と呼ばれる細長い形へと細分化されていました。雄牛たちによって牽引される重い犂は方向転換が容易ではないことから、必然的に細長い形になったようで、その重い犂でストライプを耕作した結果、「畝と溝(ridge and furrow)」が生まれました。それが今でも残っているところがあるんですね。

参考写真;畝と溝(Ridge and Furrow)
Source; By Philip Halling, CC BY-SA 2.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10379365
By Unknown - Myers, Philip Van Ness (1905) [1885]
"Growth of Nations" in Mediaeval and Modern History (Revised edition ed.),
Boston, New York, Chicago & London: Ginn & Company, pp. p. 218
Retrieved on 12 January 2009., Public Domain,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2979307

ハングリー・ベントレーでは地上からでも確認できますが、航空写真ではよりはっきりと「畝と溝」、大通りや住宅地跡が確認できるそうです。特に村に隣接した「畝と溝」というのは、まさに開放耕地制度の名残であり、中世の農業生活や歴史的農村景観に関する重要な情報源が含まれているのだそうです。通常は、その後に生け垣や塀などが建てられ囲われてしまっている場合が多いのに対し、ハングリー・ベントレーでは保存状態が良く、考古学的に重要な堆積物を含んでいることが多い。また、村のレイアウトだとか、村が広い農地にどのように適合していたのかを知る手掛かりにもなるのだそうです。最終的には、この地域における中世の村の発展と終焉についても知る手掛かりになるのかもしれません。

イギリスでは開放耕地制度や中世の村を知る上でミッドランド地方は重要な地域と考えられています。ノッティンガムシャーのラクストン(Laxton, Nottinghamshire)なども、考古学的にはよく知られている廃村のようですが、ハングリー・ベントレーも1956年に国家的に重要な遺跡として「指定遺跡(scheduled monument)」に指定されました。初め、廃村であること、地名が変わっていたことで、興味を持って調べたハングリー・ベントレー。写真を見ても素人目には単なる草地にしか見えなかったんですけど、専門家の目には色々な事が見えているんですね。
参照;

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