ノリッジ城。

イングランド東部ノリッジにあるノリッジ城(Norwich Castle)。ノルマン・コンクエスト後の1066~1075年頃の間に建てられたという城の一つだそうだ。ノリッジは何度か訪れているけれど、いっぱい素敵なところがある町だし、『城』という意味では箱っぽくて全く興味をそそられず、これまで一度も行ったことありませんでした。現在は歴史・自然史博物館&アートギャラリー(Norwich Castle Museum & Art Gallery)になっています。他と比べると歴史の展示コーナーは少な目かな。


中心となるキープの内部。


ヘイスティングズの戦い(1066)に勝利したウィリアム一世(William I; William the Conquer; 1027-1087)はイースト・アングリア地方の征服に乗り出します。最もベストな場所に城を建てる。それが彼らのやり方でした。ノリッジでは、もともとあった100軒もの家屋を破壊して盛り土し、要塞を建設しました。それがノリッジ城。初期に建てられた城(1066-1075頃)は木造のモット&ベイリーだったそうで、現在の石造の城は1095~1110年頃に約30年かけて改築されたものらしい。

 
そして、ヘイスティングズの戦いに参戦したラルフ・ド・ゲール(Ralph de Gaël; before 1042-c.1096)という人物がいます。彼はノルマン軍の主要な指導者の一人であり、ウィリアム一世からの信頼を得て、イースト・アングリア伯爵(The Earl of East Anglia; Norfolk and Suffolk)を賜り、ノリッジ城を守っていた人物。ところが、1075年に王の承認なく16歳のエマ・フィッツオズボーン(Emma FitzOsbern; daughter of William FitzOsbern; Earl of Hereford)と結婚しちゃうんです。結婚して何が悪い。エマには父から遺産を相続した兄ロジャー(Roger de Breteuil, 2nd Earl of Hereford)がいました。つまり、彼らの結婚はイングランド内の広大な土地を有する有力な伯爵家同士の結びつきを意味し、ウィリアム一世の脅威となり得たのです。だからたぶんウィリアム一世はその結婚を認めなかった。にもかかわらず、彼らは王の不在中に勝手に結婚しちゃうのです。ロジャーとラルフには反乱を起こすという計画がありました。彼らはノーサンブリア伯爵のワルセオフ(Waltheof; the Earl of Northumberland) にも反乱の話を持ち掛けました。これが有力な領主たちによって起こされた『伯爵たちの反乱(Revolt of the Earls; 1075)』と呼ばれるものです。これは、征服したアングロ・サクソン人による反乱ではなく、ウィリアム一世の味方のはずだった伯爵たちによる反乱でした。

結局、ワルセオフが心変わりし、こんなんじゃいけないよーとカンタベリー大司教ランフランクスに反乱の企てを告白したことで計画は失敗に終わります。最終的にラルフとエマは全ての土地と伯爵の称号も奪われ、ブルターニュへ亡命。ロジャーもまた全て没収され、永久投獄を言い渡されます。ウィリアム一世の死後1087年に釈放され、ノルマン貴族の娘と結婚しているようですけど。そして、一番の悲劇はワルセオフでしょう。反乱を止めようとした人物でも、彼の妻ジュディスがウィリアム一世の姪でも、ランフランクスが彼は被害者だと取りなしても、彼にとってはこれが2度目の裏切りだったこともあり、反逆の罪で斬首刑となりました。

最後に思うのは、ラルフとエマの結婚は単なる戦略結婚だったのか、それともそこに愛があったのかということ。マチルダ・マリア・ブレイク女史(Matilda Maria Blake)の本『The Siege of Norwich Castle; A story of the last struggle against the Conqueror』を見ると2人は愛し合っていたことになっている。実際、反乱計画発覚後、ラルフが支援を求めてデンマークへ行き、ノリッジ城が包囲された時、エマは立て籠もり、城を守ろうとした。最終的に城と引き換えに、彼女自身と彼女の軍の安全を交渉している。もしかしたらお互いに野望もあったかもしれないけど、愛か忠誠心か迷った末に貫いた結婚ならば、なんだかカッコイイ。だから2人に愛があったということにしておこう。
 
Emma and Ralph
Source; The Siege of Norwich Castle

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