ハンブル・パイ

今年もクリスマス時期を迎えました。チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル(1843)』の作品の中で、スクルージがボブ・クラチットに大きな七面鳥を送るシーンがあります。このように、クリスマス・ディナーのメインとなるものは七面鳥やチキンですが、実際、七面鳥がイギリス全土に広まったのは17世紀だそうです。それ以前の中世時代には大金持ちはイノシシ、また鳥の中ではガチョウが最も一般的で、孔雀や白鳥を食することもありました。鹿肉はその代替品として中世のクリスマスで人気がありましたが、もちろん貧しい人々は「肉」を食べることは許されませんでした。慈悲深いことが真の「クリスマス精神(Christmas Sprits)」であるということからか、イギリスの貴族が鹿肉を食す一方で、使用人や貧しい農民には、それらの内臓が与えられました。内臓と言っても彼らにとってはご馳走だったのです。14世紀頃、動物、特に鹿の心臓、肝臓、腸、内臓などは一般的に「ナンブル(Numbles;またはnoumbles, nomblys, noubles)」と呼ばれており、15世紀後半になると少し砕けて「アンブル(Umble)」と呼ばれるようになりました。そして、 貧しい人々はそのようなアンブルを用いた「アンブル・パイ(Numbles Pie)」を焼いたそうです。因みにパイというのは、冷蔵庫のない時代、保存の手段でもあったんですね。ペイストリー(pastry)で焼き、澄ましバター​​で密封すると中身は何ヶ月も保存されたといいます。

パイの並ぶキッチン;ハンプトン・コート宮殿

こうして、下級者層で食されていたアンブル・パイ。元々は彼らにとってクリスマスのご馳走だったのかもしれません。「アンブル・パイ」の最初の記録は17世紀にさかのぼります。著名な作家でありグルメでもあるサミュエル・ピープス(Samuel Pepys)は、日記に「アンブル・パイ」について言及しています。例えば1662年7月5日の日記には「1、2日前に鹿肉をもらったので、ショルダー肉をローストし、もう一つは焼いて、アンブルはパイに詰めて焼いた。どれも非常にうまくできた」と書かれています。
”I having some venison given me a day or two ago, and so I had a shoulder roasted, another baked, and the umbles baked in a pie, and all very well done."
思わず、ここでいう「ロースト(Roast)」と「ベイク(Bake)」何が違うのかな?と思ったのですが、ローストはどちらかというと(丸焼きみたいに)直火で油を滴らせながら、焦げ目をつけて焼くイメージ。ベイクは直接炎にさらさず、おそらく容器にのせ、乾熱で調理したという事なのかなと思います。当時の調理法について詳しいことは分かりませんが、いずれにしてもアンブル・パイは普通に食されていたことが分かりますね。更に、1663年7月8日の日記にも、「ターナー夫人がやって来て、オーブンから熱々のアンブル・パイを持ってきてくれた。とても美味しかった。」と記しています。
"Mrs Turner came in and did bring us an Umble-pie hot out of her oven, extraordinarily good."
ところが19世紀になると、このパイは不名誉にも「ハンブル・パイ(Humble pie;身分の低い、卑しいパイ)」と呼ばれるようになりました。そして、間違いを行った者に対し、過ちを認めて屈辱的に卑しいパイでも食べて反省・謝罪しろという意味を込めて「ハンブル・パイを食え(Eat humble pie.)」という言葉が使われるようになったそうです。ただし、実際の語源を見てみると、「Umble(アンブル)」は「loins(腰肉)」を意味するラテン語の「lumb」から派生したノルマンフランス語であり、「humble(ハンブル)」は「lowly(低い、身分の低い、卑しい) 」を意味する「humilem(フミレム)」から来ています。なので、実際には全く異なる単語でありながら響きが似ていること、そして、もともとは貧しい人が食べていたというイメージから、偶然に生み出された言葉のようです。決して下級の食べ物ではありません。そもそも、イギリスでは「ステーキ・アンド・キドニー・パイ(Steak and kidney pie)」など、内臓を使った料理は普通に存在していますからね。とにかくパイは奥が深いのです。

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