緑色のこどもたち。

緑色の顔というと、真っ先にシュレックを思い出してしまうのだけれど、実はイギリスには『ウールピットの緑色のこどもたち(The Green Children of Woolpit)』という有名なお話があります。事実に基づいたとされるこの伝説は、12世紀半ば、スティーブン王(Stephen; c1096-1154)の時代に、ウールピット(Woolpit)という村で起きた出来事です。その治世は内戦が収まらず「無政府時代(The Anarchy)」と呼ばれたかなり激動の時代でした。

ウールピット(古英語ではwulf-pyttとも)は、サフォーク(Suffolk)に古くから実在する村で、その地名はつい羊毛?と思ってしまいますが、10世紀には「Wlpit」、後に「Wlfpeta」と記録されており、「オオカミを捕まえるための穴」を意味する古英語の「ウルフピット(wulf-pytt)」にちなんで名づけられた地名と言われています。昔からある狩猟の方法の一つですね。この村のヴィレッジサインにも村の特徴である教会、オオカミ、このお話の子どもたちがデザインされています。

Source; Wikipedia
ウールピットのヴィレッジサイン
By Rod Bacon - This file was derived from:
The "green children"of Woolpit on the village sign
 - geograph.org.uk - 1161413.jpg, CC BY-SA 2.0,
 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6624969

オオカミってイギリスにいたの?答えはイエスです。ローマ時代初期からアングロサクソン年代記後期の書物により、島にオオカミが非常に多く存在していたことが示されているそうです。しかも、動物によくみられる「島嶼化(とうしょか;island dwarfism)」という生物地理学の影響を受けず、ホッキョクオオカミと同じくらい大きく成長した可能性があったとも言われています。「島嶼化」とは、大小島々では利用可能な生息域や資源量が著しく制限されるため、他の地域で見られるよりも生物が巨大化・矮小化するという説のことらしいです。けれど、イギリスではこの種のオオカミは、森林伐採、報奨金制度による活発な狩猟によって絶滅してしまったようです。ちなみに、イースト・アングリア初期の王朝の系譜には、オオカミの人々を意味する「ウファ(Wuffas)」と呼ばれる部族が記録されています。これはこれで調べたら面白いかも。

さて、話を戻して『ウールピットの緑色のこどもたち』というのは、1150年頃にオオカミを捕えるための穴の近くで、ウールピットの村人たちが2人のこども(10歳くらいの少女と幼い少年)に出くわしたというお話です。なぜ有名な話しかと言うと、こどもたちの肌は緑色、未知の言語を話し、奇妙な服を着ていたとされるからです。こどもたちは近くの屋敷(Sir Richard de Calne)へ連れていかれましたが、最初の数日間は食事を拒否し、屋敷の畑で栽培されていた豆を見つけると、豆しか食べなかったそうです。2人は数年間、その屋敷に住み続け、徐々に通常の食事をとるようになったことで、顔色は徐々に緑色ではなくなっていったといいます。こどもたちは洗礼を受けるために地元の教会に連れて行かれましたが、残念ながら少年(少女の弟)はその後すぐに未知の病気で亡くなってしまったそうです。少女は「アグネス」と名付けられ、屋敷で何年も働き続けた後、リチャード・バーという男性と結婚し、少なくとも1人の子供を出産したと言われています。

のちに英語を学んだ少女の口から語られた物語は、更に謎を深めました。なぜなら彼女は自分たちがどうやってこの村(ウールピット)に来たのかは分からない。唯一覚えているのは、ある日、野原で父の羊の群れに餌をやっていたとき、素晴らしい鐘の音が聞こえ、夢中になって鐘の音を聞きながら暗闇を彷徨っていると、とても眩しい世界に出たと語っており、自分たちはセント・マーティンと呼ばれる土地から来たこと。そこは太陽が昇らず、太陽光によって照らされることがなく、トワイライトのようなぼんやりとした明るさがあるだけで、人々はみんな緑色で、動物の肉は食べなかった。さらにそこは、非常に大きな川で隔てられていたと語っており、あたかも異世界から来た印象を与えているためです。

『ウールピットの緑色のこどもたち』のお話が事実であれば、彼らは何者だったのでしょう?中には地底人説、地球外生命体であった等という説もありました。けれども、歴史家による最も可能性の高い説というのは、彼らがスティーブン王、あるいはヘンリー2世によって迫害され、おそらく殺されたフランダース移民の子孫だったという説です。歴史的背景を見てみると、事実、多くのフランダース移民がイングランド東部に到着しており、12世紀には迫害を受けていました。1173-1174年に起きたフォーナムの戦い(Battle of Fornham)では、ベリー・セントエドマンズ(Bury St.Edmunds)北部で彼らの多くが殺害されたと言われています。そのため、両親を内戦か何かで亡くし、迷子になった可能性は高いのかなと思います。それに、近くにはセント・マーティンに似た地名で、フォーナム・セント・マーティン(Fornham St Martin)という村もあり、そこから来た可能性もあるのでは?とも言われています。彼らはフランダースのコミュニティ内のみで生活していたために英語を話さず、母国語のフラマン語(Flemish)しか話せなかったとも考えられています。それに、現代のような住所は知らなかったでしょうしね。

位置関係(Google map)

では、彼らはなぜ緑色の肌だったのでしょう?食事を拒否し、「豆」だけを食べたという話から、緑色の印象がより強調されている気もします。私は医学的な話は分かりませんが、緑色の肌というのは栄養不足の結果であり、皮膚に緑がかった色合いを与える欠乏症ということで説明できるそうです。そのため、より良い食事をとることで皮膚が通常の色に戻ったという訳なんですね。なるほど。

この物語は、2人の有名なイギリスの年代記者によって記述されています。シトー会修道院、コゲシャルのラルフ修道士(Ralph of Coggeshall, a monk of the Cistercian abbey)は、実際こどもたちが過ごした屋敷の主人から話を聞き、1189年頃に『クルニコン・アングリカナム(the Chronicon Anglicanum)』 に記述しています。また、アウグスチノ会修道院、ニューバーグのウィリアム修道士(William of Newburgh, a monk from the Augustinian priory of Newburgh)は後の1220年に『ヒストリア・レラム・アングリアカム(Historia rerum Anglicarum)』にその話をまとめているそうです。

それにしても、好奇心を掻き立てる話であることは事実です。真相は分かりません。何せ1150年頃の話だそうですし、話がちょっと断片的すぎて。。。当時、フランダース移民の人々について、その田舎でどの程度理解されていたのかは分かりませんが、互いの異文化なるものは存在したと思いますしね。このお話に関しては、個人的にはカルト的な要素よりも、歴史に基づく説のほうがしっくりくる気がします。ともあれ、不思議な物語。彼女の子孫たちが今もどこかで生活しているのかもしれませんね。

参照;

  • The Anthology of Enlish Folk Tales, The History Press
  • Folktale and Ledgends of East Anglia by Geoffrey M. Dixon and Lynn Green, Mininx Books Ltd.
  • Hidden Suffolk, Gill Elliott, Countryside Books
  • Wikipedia

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