廃城になっちゃった訳。
ちょっと前のお話になりますが、ある晴れた日にエセックスにある荒廃した遺跡、ハドリー・カッスル(Hadleigh Castle, Essex)に行きました。ハドリー・カッスルは、テムズ川の河口を見下ろす丘の上にあります。この土地はジョン王(John, King of England; 1167-1216)が信頼できる追随者として、ケント伯ヒューバート・ドゥ・バラ(Hubert de Burgh; c. 1170-before 5 May 1243)という人物に与えた土地で、ヒューバートはそこに彼の権力の証としてハドリー・カッスルを建城(1215~1239年)しました。
ヒューバートはジョン王の政権下、ウィンザー(Windsor)とドーバー(Dover)2つの主要な城を管理した人物で、フランスからドーバーへの襲来(1216)を受けた際には、包囲戦を耐えて城を守り抜き、彼の優れた軍事力を示したそうです。1215年のイングランド国王の権限を制限したマグナ・カルタ(Magna Carta)では、その憲章に署名するようジョン王に助言した人物の1人とも言われています。また、イングランドとアイルランドのジャスティシァー(justiciar)も務めました。これは現代でいうところの首相のような立場です。これだけでも当時、主要な人物だったことが伺えます。彼が忠実に仕えたジョン王は戦いのさなかに赤痢を患い病死。ジョンの息子であるヘンリー(Henry III; 1207-1272)が僅か9歳で王位を継承したことから、引き続きヘンリー3世を支えました。ところがしばらくして、敵の陰謀によりヒューバートは王の信頼を失い、職から解任され、投獄されてしまうのです。そして、1239年にはハドリー・カッスルを含む彼の全ての土地が没収されてしまったそうです。
南東にあるタワーの中から上を見上げてみたら、上部窓の天井いっぱいに落書きが残されていました。よく遺跡には古い落書きが残っていたりしますが、これはどうやら18~19世紀にかけて税務官・収入担当官により展望台として使用していた可能性があり、その頃に刻まれたもののようです。。。
栄光を称え、財産をつぎ込んで建てた城も、没収、解体と、施主の意に反して崩れて消えていく。ピンポイントではなく時代の流れの中でこの城を見ていると、なんだか虚しさを感じます。きっと自分の財産も同じなんですよね。好きな物を買って、好きな物を着て、でもそれは今の自分の心を満たすもの。自分がいなくなってしまえば、自分の手を離れ、その行く先など把握することは出来ないんですから。。。
さて、こちらは丘の上(タワーの脇)からの眺め(南側)。左右に線路が走り、遠くにはテムズ川河口が見えています。1948年以降、ハドリー・カッスルはイングリッシュ・ヘリテイジ(English Heritage)の管理下(入場無料)にあります。
ヒューバートはジョン王の政権下、ウィンザー(Windsor)とドーバー(Dover)2つの主要な城を管理した人物で、フランスからドーバーへの襲来(1216)を受けた際には、包囲戦を耐えて城を守り抜き、彼の優れた軍事力を示したそうです。1215年のイングランド国王の権限を制限したマグナ・カルタ(Magna Carta)では、その憲章に署名するようジョン王に助言した人物の1人とも言われています。また、イングランドとアイルランドのジャスティシァー(justiciar)も務めました。これは現代でいうところの首相のような立場です。これだけでも当時、主要な人物だったことが伺えます。彼が忠実に仕えたジョン王は戦いのさなかに赤痢を患い病死。ジョンの息子であるヘンリー(Henry III; 1207-1272)が僅か9歳で王位を継承したことから、引き続きヘンリー3世を支えました。ところがしばらくして、敵の陰謀によりヒューバートは王の信頼を失い、職から解任され、投獄されてしまうのです。そして、1239年にはハドリー・カッスルを含む彼の全ての土地が没収されてしまったそうです。
ハドリー・カッスルはというと、しばらく放置されたのち、徐々に手が加えられ、王宮として使用されました。ヒューバートが建てた最初の城は、正方形と半円形の塔と東側にバービカン(barbican; 城の出入り口にあたる門・防御施設)のある城壁で囲まれた八角形のデザインだったと考えられています。
そして時が過ぎ、エドワードVI(Edward VI of England; 1537-1553)時代になると、こんどは城の一部が徐々に売却され始めます。1551年には城自体がリチャード・リッチ(初代リッチ男爵; Richard Rich, 1st Baron Rich; 1496-1567)という人物に売却され、彼は1551~1575年にかけてお金になる石材を売るために城を解体してしまったそうです。下のエッチング(1783年)では、まだ居住部分や南側の壁が残されているのが分かります。
Source; Wikipedia The towers, royal lodgings and remaining walls as seen from the south in an engraving of 1783, after Francis Grose |
イギリスの画家ジョン・コンスタブル(John Constable)も1814年にここを訪れ、1829年に完成させた油絵には当時のハドリー・カッスルの姿が残されています。
Source; Wikipedia 1829 John Constable |
既に荒廃していますが、1935年時点でも同様の状態が残されていた感じですね。
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1935, Hadleigh Castle Source; https://www.hadleighhistory.org.uk/content/main-subjects/people/frederick_wanstall_hadleighs_last_shepherd |
ところが北東の塔(写真左)は1950年代に大きく崩壊し、1969年、1970年、2002年にさらに大きな滑りが発生したそうで、現在は三角形のような形でしか残っていません。南東(写真右)にある3階建ての塔の1つは、上層階に狭い長方形の窓があり、高さはほぼそのままで残っています。この丘はロンドン・クレイ(London Clay)と呼ばれる柔らかな地層のようで、南側にあった壁も1898~1923年の間に沈下と滑りが発生して大きく崩壊してしまったようです。このようにしてこの城は徐々に姿を失っていったのですね。
栄光を称え、財産をつぎ込んで建てた城も、没収、解体と、施主の意に反して崩れて消えていく。ピンポイントではなく時代の流れの中でこの城を見ていると、なんだか虚しさを感じます。きっと自分の財産も同じなんですよね。好きな物を買って、好きな物を着て、でもそれは今の自分の心を満たすもの。自分がいなくなってしまえば、自分の手を離れ、その行く先など把握することは出来ないんですから。。。
さて、こちらは丘の上(タワーの脇)からの眺め(南側)。左右に線路が走り、遠くにはテムズ川河口が見えています。1948年以降、ハドリー・カッスルはイングリッシュ・ヘリテイジ(English Heritage)の管理下(入場無料)にあります。
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