エイミー・ロブサートの不審死。

テューダー朝最後の女王エリザベス1世は『ヴァージン・クイーン(The Virgin Queen)』として生涯独身を通したことで有名ですよね。そんな女王の寵臣であり、愛人でもあった初代レスター伯ロバート・ダドリー(Robert Dudley; 1532-1588)は、一時は女王との結婚が取り沙汰されました。ところが、もともと彼には妻がいました。それがエイミー・ロブサート(Amy Robsart; 1532-1560)という綺麗な女性です。旦那が浮気。キィィィ~。となったのか?今回はエイミーの人生について調べてみました。

Source; Wikipedia
Fantasy Portrait.
Amy Robsart (1870) by William Frederick Yeames

エイミーはノーフォーク(Norfolk)の裕福なプロテスタントの家庭に生まれ、母親の家であるスタンフィールド・ホール(Stanfield Hall)で良い教育を受けて育ちました。16世紀半ばに地元で農民の反乱が起こり、ロンドンから兵士がやってくると、その騒動を鎮圧しました。その兵士のリーダーがロバート・ダドリーの父親ダドリー伯爵であり、スタンフィールド・ホール近くに兵の本部が設置されたことから、エイミーの家族は伯爵や彼の家族らをもてなし、交流を持ったようです。そしてすぐにエイミーと息子のロバートは恋に落ちます。2人は同じ年で、出会いから10か月程経ち、エイミー18歳の誕生日を迎える3日前(1550年6月4日)にロンドンで結婚し、結婚式には若い王エドワード6世を含む貴族が出席したと言われています。当時の平均的な結婚年齢は10代かと思ったら、意外にも20代半ばだったようで、早い結婚だったんですね。夫のロバート・ダドリーも18歳の花婿として若く、家族の富や影響力があったにもかかわらず、五男坊ということであまり多くは期待されていなかったようです。2人はイングランドにあるダドリー邸宅のさまざまな家を訪れては、豊かでロマンチックな生活を送っていたそうです。ところが国王が亡くなり、ロバートの父親が陰謀に巻き込まれて処刑されると、ダドリー家の所有物は没収され、ロバート・ダドリーもロンドン塔に幽閉されることとなり、彼らの運命は変わり始めました。因みに、若かりし頃のエリザベスも同時期にロンドン塔へ幽閉されていたんですね。

幽閉中は彼に会いに行くことが許されていたようですが、ロバートは母親の働きかけなどにより釈放(父は処刑)され、2人はスタンフィールドの家へ戻りました。資金が不足していたためにエイミーの両親の援助を受けて過ごしていたようです。しかし、ロバートはそれほど満足せず、エリザベス1世の宮廷に愛顧を求めました。没収された土地はダドリー家に返還され、エリザベス1世はロバート・ダドリーと多くの時間を過ごすようになったのです。いわるゆる不倫ですよね。そんな噂がエイミーの耳に届いてから、彼女はひどく失望し、体調を崩しました。夫に見捨てられたエイミーの体重は急減し、顔色も悪く、周りの人々、とくにジョン・アップルヤードはその症状が病気、あるいは何らかの中毒症状ではないかと疑問を抱きました。ジョン・アップルヤード(John Appleyard)は、エイミーの異母兄弟で親友でもあり、近くのレインソープ・ホール(Rainthorpe Hall)に住んでいたことから非常に友好的な関係だったそうです。ジョンは一時期、エイミーの家族とスタンフィールド・ホールで一緒に住んでいたこともあり、ロバートの不在の間、ジョンの存在は彼女の心の支えになったとも言われています。

エイミーはさまざまな地域を転々として友人らと暮らし、子どもも持たぬまま、夫に会うこともほとんどありませんでした。彼女がバークシャーにあるカムナー・ホール(Cumnor Hall)を訪れていた1560年9月8日、多くの使用人を4マイル離れたフェアへ見送った後、ほぼ一人となった時がありました。そして遅くに使用人が戻ってくると、わずか8段ある階段の下で首の骨を折って亡くなっていたのが発見されたのです。28歳の若さでした。そのニュースを聞いたジョン・アップルヤードは「殺人に違いない。ロバート・ダドリーと女王の両方が彼女を殺すための陰謀に関与したに違いない」と主張しました。そのため、ジョンは刑務所に投獄され、陪審員が「事故死」の評決を下すまで釈放されることはありませんでした。

Source; Wikipedia
The Death of Amy Robsart,
as imagined by Victorian artist William Frederick Yeames

彼女の死因については憶測が飛び交いましたが、今も謎のままです。歴史家たちの間でも、事故、自殺、殺人の説が議論されています。エイミーは「乳がん」を患っていたとされ、病に憂いでいたとか、死にかけていたなどという説、脊髄にも移転して衝撃や転倒により、自然に首が折れてしまったという説や、愛人関係にあったエリザベス1世とダドリーの意向を受けて、何者かが妻エイミーを突き落として暗殺したのではないかなどの説があります。地域を転々としていたのも毒殺されるのを恐れていたと考える人もいます。

結果として、当時は「事故死」として公式に発表されましたが、ほとんどの国民は陰謀があったのではとかなり疑っていたようです。エイミーの遺体はオックスフォードにあるセント・メアリーズ(St. Mary's, Oxford)に埋葬されました。ロバート・ダドリーは約6か月間喪に服していましたが、エイミーの異母兄弟、隣人や著名人が参列した葬儀には出席しなかったそうで、そういった行為がさらなる憶測を呼び起こし、彼の評判には傷がついたようです。のちにスコットランドの詩人・小説家であるサー・ウォルター・スコット(Sir Walter Scott, 1st Baronet; 1771-1832)が、小説「ケニルワース(Kenilworth)」の主題に取りあげたことから、この話題が再燃したのだとか。

まさに真実はエイミーのみぞ知る。彼女の不審な死に関する噂は、粉飾されて民間伝承として伝えられてきました。カムナー・ホールの建物は1810年に取り壊されてしまいましたが、それまでは悲惨な終わりを遂げたエイミーの幽霊に悩まされていたと言われています。その後はノーフォークのサイダーストーン(Syderstone)にあるエイミーの両親の家でたびたびポルターガイスト現象が報告されたたため、地元の人々はエイミーの幽霊だと信じていました。他にも、幼少時代過ごしたレインソープ・ホールの外やエイミーと所縁のある場所で幽霊が目撃され、彼女の霊だと噂されたようです。

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