笛吹き男の話。

グリム童話に収められている『ハーメルンの笛吹き男(The Pied Piper of Hamelin /Rattenfänger von Hameln)』は、ドイツ西部に古くから伝わる民間伝承として広く知られています。どんな内容だったかというと、ドイツ北部ハーメルンの町で、人々は大繁殖したネズミに頭を抱えていました。ある日、様々な色が混ざった服を着た「笛吹き男」が現れ、高額な報酬と引き換えにネズミ退治を提案し、町の人々はその取引を受け入れました。男がポケットから小さな笛を取り出して吹き始めると、笛の音色に誘われた大量のネズミが現れ、男はそのままネズミを川へ誘導して全て溺死させました。ところが人々は駆除が済んでも約束を反故にして報酬を支払いませんでした。約束を破られ、怒った笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から笛の音色に誘われた子供たちが出きて男のあとをついて行き、そのままハーメルンから姿を消してしまったというお話です。

実はこのお話は作り話ではなく、史料から1284年6月26日にドイツ・ハーメルンから130人の子供たちが集団失踪したという歴史的事実がもとになっています。14世紀から17世紀にかけてハーメルンの教会に設置されていたステンドグラスには記録として以下のような説明文(Wikipediaより)が添えられていたそうです。

1284年、聖ヨハネとパウロの記念日
6月の26日
色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に
130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され
コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった

「コッペン(Koppen)」とは、古ドイツ語で「丘」を意味するそうで、どの丘を指しているのかは不明だそうです。伝説の起源に関しては諸説あり、東ヨーロッパへの移民説や子供十字軍など、様々な仮説が立てられています。最終的にこども達の集団失踪の伝説とネズミ駆除の伝説が統合されたものではないかとされていますが、謎のままです。

『ハーメルンの笛吹き男』について調べていた際、小学館の雑誌『サライ』の公式サイト「サライ.jp」に『ハールメンだけじゃない!?謎の能力を持つ怪しい「笛吹き男」伝説(オーストリア)(2021/5/8)』という記事があり、興味深く読ませていただきました。タイトル通り、オーストリアのコルノイブルク、マルガレーテンやフライシュタットにも同様のお話が残されているようです。さらには、アイルランドやスペインなどの欧州にも、ネズミ捕り男伝説は残されていることにも触れていました。そうなんです。なぜ今回『ハーメルンの笛吹き男』の話を調べていたかというと、実はイギリス、サフォークにあるベックルズ(Beccles, Suffolk)の町に『ベックルズの3人の笛吹き男(Three Pipers of Beccles)』という『ハーメルンの笛吹き男』を連想させる物語があったからです。厳密に言うと、オーストリアの物語はかなりドイツのものに酷似しているのに対し、ベックルズの話は微妙に異なり、子どもたちが消えるという要素はありません。ただ、笛吹き男がネズミを退治したという話に、魔女(悪魔)との取引という内容が加わっています。そんなベックルズのお話はざっくり次の通りです。
町長をはじめ、長老たちは、ネズミ対策に頭を抱えていました。そんな時、3人の男が現れ、笛でネズミを町から追い出し、絶滅させることを提案したのです。町長らは話し合いの末、彼らの提案を受け入れ、報酬として45,000 マルクを支払うのが妥当な値段だろうということになりました。

町を流れる川のほとりには、人々が避けて通る老朽化した小屋があり、そこには不潔で恐ろしい3人の魔女が住んでいました。3人の男は町長に提案を持ちかける際、その小屋の中に生者も死者もすべて消えるという鉄製の大釜があるという噂に注目していたのです。そこで3人は、思い切って3人の魔女に会いに行き、長いことネズミ退治について何らかの取引を交わしていたとされています。どのような取引が行われたのはかは誰にも分かりません。ただ、8月31日、3人が広場に立って笛で奇妙な音楽を奏でると、あちこちからネズミが現れ、その後川の方へとネズミを先導していきました。その晩、ベックルズの町は喜びに包まれ、翌日には完全にネズミが消え、3人の魔女が住んでいた小屋のドアもしっかりと施錠されたそうです。

町長は、報酬の45,000マルクを用意して待っていましたが、笛吹き男たちは報酬を受け取りに現れることはありませんでした。そして毎年8月31日の日没時になると、その川の近くで3人の笛吹き男たちの笛の音が聞こえると言われています。

ベックルズは、サフォークとノーフォークを隔てるウェイブニー川沿いに位置し、かつては川に沿って暴力と略奪を目的とした冷酷なデーン人の波が押し寄せました。地名は「川沿いの牧草地」を意味する『bec-laes』という言葉に由来しているとされています。通り名に「ソルトゲート(Saltgate)、ノースゲート(Northgate)、スモールゲート(Smallgate)、ハンゲート(Hungate)」という名前が残っていることから、要塞で囲われていた町だったと考えられています。

Beccles, 2019
the view from Bell Tower



「魔女」や「悪魔」と契約を結ぶという考えは伝説によく登場し、人間の魂と引き換えに、若さ、権力、富、知識などと交換されています。因みに以前紹介した『スコットランド;ロッホ・アシントのマーメイド伝説』にも悪魔との取引が登場しました。この3人の男は前の黒死病で家族全員を失っており、恐らくベックルズの町と人々を救うため、魔女と魂の取引を行ったものと考えられます。笛が趣味?だったのかはわかりませんが、3人とも演奏者という訳でもないようなので、もしかしたら演奏技術も取引の一つだったのかもしれません。自らの命を懸けたまさに英雄ですね。面白いなと思ったのは、そんな英雄たちや魔女たちの名前がしっかり記されていたことです。時計職人のピーター・ハリス(Peter Harris)、獣脂(牛や羊の脂肪)を使用したキャンドル製造販売者のジョナサン・ベッツ(Jonathan Betts)、そして行商人のサミュエル・パートリッジ(Samuel Partridge)。また、3人の魔女はナンシー・ダイバー(Nancy Diver)、サリー・プライス(Sally Price)、ファニー・バートン(Fanny Barton)です。いかにも実在したかのような印象を与えますが、ベックルズのこの物語は一応フィクションと考えられています。とはいえ、このお話は町が実際にネズミがもたらす黒死病対策を行ったことに繋がっているのかもしれません。

1665年春に発生し1666年末まで続いたペスト(黒死病)は、1348-1349 年のペスト以来ヨーロッパにおいて最悪な結果をもたらしました。黒死病はノミによって媒介されると考えられており、ノミは汚い町で繁殖し、さらには交易により、容易に移動できるネズミによって媒介されると考えられています。当時のベックルズは小さくて繁栄した町でしたが、やはりネズミに悩まされていました。就寝中に噛まれることが多く、ネズミが病気を媒介するという噂を耳にしていた人々は恐怖の中で暮らしていたのです。そんな中、ベックルズは対策に出ました。実際に残された資料から、ペストの侵入に対する予防措置がとられ、町への人々の侵入を妨げていたことが明らかとなっています。いわゆるロックダウンです。実際、ある男性がベックルズの借家へ戻ってきたところ、監視員によって止められたと記録されています。当時は、仮設小屋が用意され、陸と水上からの侵入を防ぐため昼夜警備していました。その男性をもと来たヤーマス(Yarmouth)へ戻すため8ポンドが支払われたとあります。もちろん監視員らにも給料が支払われ、パン、ビール、タバコ、ろうそくも付与されました。この結果、ヤーマスでは1665年に2,500人もの死者を出し、近郊のベルトンでも多くの死者を出したのに対し、ベックルズでは未然に防ぐことに成功したとあります。この取り決めをまとめたのは、ベックルズ在住のロバート・ブラウンリッグ(Robert Brownrigg)という人物でした。

ベックルズのこの物語はもしかしたらドイツから伝わったお話がもとになっているのかもしれません。だから通貨がマルク?とも思ったのですが、マルクはドイツなどで使用されていた通貨ですが、実はイングランドやスコットランドでも10~17世紀頃に単位として使用されていたようで歴史本の中でも目にすることがあります。因みに「マルク」は 2/3ポンド(13シリング4ペンス)に相当しました。また、ドイツ語の『Rattenfänger』とは「rat-catcher(ネズミ捕り男)」を意味するもので、実際にネズミ駆除を仕事とする人々がいたようなのですが、日本語や英語ではなぜか「笛吹き男」と訳されているんですね。そして疑問に思った。ネズミと笛は何か意味があるのだろうか?それにしても当時の衛生面を考えると、ネズミ駆除は低効率かつ危険な仕事だったのではないかと推測します。

今回は『ハーメルンの笛吹き男』とはちょっと違う『ベックルズの3人の笛吹き男』のお話を紹介しましたが、不衛生なネズミと奇妙な魔女が登場することで、読んでいて少し気味の悪い物語だなぁと思ったと同時に、黒死病の裏で笛吹き男がネズミを追いやったがごとく、ロックダウンを行って町を救ったという事実が交錯した興味深いお話でした。

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