古代人の足跡。
スコットランド南西部に『マル・オブ・キンタイア(Mull of Kintyre/キンタイア岬)』と呼ばれる岬があります。ポール・マッカートニー&ウイングス(Paul McCartney and Wings)が同名の楽曲『Mull of Kintyre(邦題:夢の旅人)』を発表していることでも知られているそうです。この歌詞は「いつだってここにいたいのさぁ~♪」とキンタイア愛を繰り返しています。実際にポール・マッカートニーがこの土地にハイパークファーム(High Park Farm)を所有していたことがあり、絵のように美しいこの半島と岬に敬意を表して書かれたと言われています。
マル・オブ・キンタイアの地名は、ゲール語(読めないけど)の『MaolChinnTìre』を英語化したもので、マル(Mull=maol)は「丸みを帯びた丘、頂上、または、はげ、むき出し」を意味し、『Chinn』は「土地の、陸地の」、『Tire』は「終わり、端」ということで英語の異形『Cantyre=ceantìre』の「岬、突端」というフレーズから派生したものだそうです。
そんなキンタイアの土地には岩石に刻まれた2つの足跡が残されています。
では、この古代の足跡はいつ、何のために作られたのでしょう?おそらくはダルリアダ王国時代に作られたものと考えられています。ダルリアダ王国(the Kingdom of Dalriada)とは、アイルランドから渡ってきたスコット人がスコットランド西部に建国した王国で、先住民族のピクト人と激しい抗争を繰り返してきました。ダルリアダ王国には主要な要塞があったことから、足跡がそれに何か関係している可能性があるとも言われています。
そして、この古代の足跡はおそらく、スコット人の王の足跡であり、キンタイアと(隣接する)アーガイル(Argyll)の地に自分たちの永久的な定住に向けた足場を築くために置かれたものではないかと言われています。スコットランドの最初の王が戴冠した忠誠の足跡であると解釈する歴史家もいるようです。個人的には何故、後にもう一つ足跡を追加した地元の石工は、両足を揃えた状態ではなく、ちょっとモデル立ちのような感じで残したのかなと疑問に思いましたが、胸を張って立っているような威厳を感じる?かもしれない。
さて、伝説によれば、先にも述べたように西暦2世紀以降、アイルランドからのスコット人がキンタイアに定住していましたが、西暦4世紀後半までにピクト人からの攻撃を受けました。報復として、アイルランドの上級王(The High King)である「Niall Naoi Noígiallach(Niall of the Nine Hostages)」がキンタイアに侵攻し、ピクト人を追い返しました。古アイルランド語で9人の人質を所有しているという意味の名を持つ伝説の王です。ストレートで面白いですね。5世紀後半、アイルランドのダルリアダ王の息子であるファーガス・モー・マック・エアク(Fergus Mór Mac Eirc)が、多くの戦士と『運命の石(the Stone of Destiny / The Stone of Scone)』を含むさまざまな権力の象徴とともに、権力の中心をここに移したと言われています。『運命の石、ストーン・オブ・スクーン』とは、スコットランド王が代々、スクーンと呼ばれた戴冠の地において、この石の上で戴冠式を挙げたとされる石だそうです。スコットランドを象徴する文化遺物の一つなんですね。
マル・オブ・キンタイアの地名は、ゲール語(読めないけど)の『MaolChinnTìre』を英語化したもので、マル(Mull=maol)は「丸みを帯びた丘、頂上、または、はげ、むき出し」を意味し、『Chinn』は「土地の、陸地の」、『Tire』は「終わり、端」ということで英語の異形『Cantyre=ceantìre』の「岬、突端」というフレーズから派生したものだそうです。
そんなキンタイアの土地には岩石に刻まれた2つの足跡が残されています。
Source; Mull of Kintyre - History - The Footprint |
これら2つのうち、写真右側(海に近い方)の足跡は間違いなく古代の起源とされ『聖コルンバの足跡(St Columba's footprints)』と呼ばれています。ところが厳密には誤りだそうで、もともと足跡があり、その後にやって来た聖コルンバがすぐ近くに礼拝堂(現在は廃墟)を設立したことから、聖コルンバに関連付けられて後付けで名付けられたものと考えられています。実際、アイオナ島に有名な修道院を設立したとされるコルンバは、西暦563年にこの半島に到着し、確かにここに滞在したと言われているのです。
さらに、左側にあるもう一つの足跡は1856年に地元の石工によって彫られたものだと分かっています。ところが(余計なことに?)2つの足跡の間に聖コルンバが到着した年を1年間違えて「564」と追加してしまったようなのです。残念。それによって聖コルンバの伝説がこじつけられて助長されてしまった訳なのです。
では、この古代の足跡はいつ、何のために作られたのでしょう?おそらくはダルリアダ王国時代に作られたものと考えられています。ダルリアダ王国(the Kingdom of Dalriada)とは、アイルランドから渡ってきたスコット人がスコットランド西部に建国した王国で、先住民族のピクト人と激しい抗争を繰り返してきました。ダルリアダ王国には主要な要塞があったことから、足跡がそれに何か関係している可能性があるとも言われています。
そして、この古代の足跡はおそらく、スコット人の王の足跡であり、キンタイアと(隣接する)アーガイル(Argyll)の地に自分たちの永久的な定住に向けた足場を築くために置かれたものではないかと言われています。スコットランドの最初の王が戴冠した忠誠の足跡であると解釈する歴史家もいるようです。個人的には何故、後にもう一つ足跡を追加した地元の石工は、両足を揃えた状態ではなく、ちょっとモデル立ちのような感じで残したのかなと疑問に思いましたが、胸を張って立っているような威厳を感じる?かもしれない。
さて、伝説によれば、先にも述べたように西暦2世紀以降、アイルランドからのスコット人がキンタイアに定住していましたが、西暦4世紀後半までにピクト人からの攻撃を受けました。報復として、アイルランドの上級王(The High King)である「Niall Naoi Noígiallach(Niall of the Nine Hostages)」がキンタイアに侵攻し、ピクト人を追い返しました。古アイルランド語で9人の人質を所有しているという意味の名を持つ伝説の王です。ストレートで面白いですね。5世紀後半、アイルランドのダルリアダ王の息子であるファーガス・モー・マック・エアク(Fergus Mór Mac Eirc)が、多くの戦士と『運命の石(the Stone of Destiny / The Stone of Scone)』を含むさまざまな権力の象徴とともに、権力の中心をここに移したと言われています。『運命の石、ストーン・オブ・スクーン』とは、スコットランド王が代々、スクーンと呼ばれた戴冠の地において、この石の上で戴冠式を挙げたとされる石だそうです。スコットランドを象徴する文化遺物の一つなんですね。
Source; Wikipedia ストーン・オブ・スクーンのレプリカ Replica of the Stone of Scone, Scone Palace, Scotland, CC BY-SA 2.0, By Aaron Bradley from Vancouver, Canada https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46994554 |
話がそれてしまいましたが、とにかく、この足跡のような岩石などに人体や動物の体の一部と思われる古代像を刻んだペトロソマトグリフ(petrosomatoglyph-s)は、もちろんスコットランドに限らず、色々なところに残されています。ペトロソマトグリフとはギリシャ語する言葉で「πέτρα(petra=石)」、「σῶμα(soma=体)」、「γλύφειν(glyphein=彫刻)」を意味します。スコットランドには他にも似たような足跡があるようなので、今度調べてみようと思います。
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