トム・ヒッカスリフト

トム・ヒッカスリフト(Tom Hickathrift)は、イースト・アングリアに伝わる伝説的な人物で、ノーフォークにあるキングス・リン(King’s Lynn)とウィズベック(Wisbech)の間にあったマーシュランド地域に住んでいたとされています。「マーシュランド;marshland(フェンズ;The Fens、フェンランド ;Fenlandsとも)」は草が生い茂る低地の湿地帯の事です。この湿地帯の大部分は1630年代から1800年代初頭にかけて排水の大工事が行われ、その結果、平坦で低地の湿った農業地帯になっています。このお話は、まだ湿地帯の広がっていた時代のお話です。

貧しい夫婦の間に生まれた待望の子トムは、初めは食いしん坊の怠け者でした。非常に背が高く、10歳になる頃には既に身長が7フィート(約213㎝)あったと言います。食欲旺盛で一度に男性4~5人分の量を食べていましたが、生活のために働く気もなく、煙突の隅で過ごすのが唯一の楽しみでした。父が亡くなり、優しい年老いた母親の頼みで嫌々ながら藁を一束もらいに行った際、「運べるだけ持って行きなさい」と言われたので、トムは長いロープを使って「2000ポンド(1トン)」の藁の束を縛り、それを背負って家に持ち帰りました。それ以降、20人で持ち上げるような重いものを軽々と一人で持ち上げたり、誰も見つけられない程遠くまでボールを蹴ったり、4人の強盗を退治したりと、驚異的な力持ちとして知られるようになり、運搬の仕事などを頼まれるようになりました。トム自身、人よりも優れた自分の腕力に気が付くと、社交的になり、陽気で非常に扱いやすい性格になり、仕事もきちんとこなすようになったと言います。

彼の一番の武勇伝は、巨人と戦ったお話です。当時、 2つの町の中間にスミース(Smeeth)と呼ばれた地域があり、そこにオーガが住んでいました。「オーガ(Ogre)」とは伝承や神話に登場する凶暴で残忍な人食いの人型怪物の種族とされ、日本では「鬼」と訳されることが多いようです。このオーガは通行人を食べることが好きで、スミースには見せしめのようにあちこちの木に殺した人間の頭蓋骨がぶら下がっていたため、人々は恐れて近道であったにもかかわらず、スミースを避けて迂回していました。そんなある暑い夏の日、トムはキングス・リンからウィズベックヘビール樽を積んだカートを馬を要せずに運んでいました。オーガを避けるための道の分岐点に来ると、疲れていて遠回りすることにうんざりしたため、危険を冒してスミースを横切ることにしたのです。

それに気づいたオーガは、巨大な棍棒と盾を手にトムの前に現れました。トムは自分の身を守る何かが必要だということに気づき、とっさに荷車をひっくり返し、樽を転がして敵の進行を遅らせました。次に荷車から車輪をはぎ取って盾にし、車軸を棍棒としました。長く激しい戦いの末、トムは勝利し、最後の一撃でオーガの頭を切り落としたのです。そして車軸と車輪を元に戻すと、オーガの頭を樽の上に置き、トムは旅を続けました。ウィズベックの住民全員が彼を歓迎し、その後彼の名前は広く知られるようになりました。こうして、トムは英雄となり、スミースに隠されていた宝も手にし、マーシュランドで最も裕福な男となったということです。

トム・ヒッカスリフトの物語は、英国の民間伝承を通じて、1631 年に初めて書き留められ、旅の行商人が販売する小さな「チャップブック(Chapbook)」によって、世代を超えて受け継がれてきました。チャップブックとは、主に17~19世紀にかけてイギリスで発行されたポケットサイズの本で、価格は1ペニー前後。この呼び名は行商人(Chapmen)が売り歩いたことによるとも、古英語で商売を意味する『ceap』がなまったという説もあるようです。当時は娯楽や情報などを伝える重要な媒体でしたが、安価で紙質も悪く、パン焼きや包装、トイレットペーパーとしても使用されたため、残存しているものはほとんどないそうです。

果たして、トム・ヒッカスリフトは実在したのでしょうか?一説ではノルマン人のイングランド征服(1066年)以前、荘園の領主たちが共有地を使用する地元住民の権利を尊重せず乱暴に扱い、口論がおこっていたとされており、その時代に生きていた「実在の人物」の可能性があると考えられています。もしかしたら当時、共有権をめぐって村人たちを擁護した英雄だったのかもしれません。伝説によれば、トム・ヒッカスリフトはティルニー・オール・セインツ(Tilney All Saints, Norfolk)村の教会墓地に埋葬されていると言われています。現在、教会墓地には「ヒッカスリフトの燭台(Hickathrift’s Candlestick)」として知られる石が残されており、19 世紀半ばか後半まで、スミースにあったとされる「巨人の墓」の丘の上に建てられていた十字架の一部を、ティルニー・オール・セインツ教会に移したものと言われています。教会内にはかつてトム・ヒッカスリフトの石の棺があったという話も残されていますが、埋葬されてしまったのか?移されてしまったのか?今では棺もなく、証拠となる記録も何も残されていません。また、教会には長い石板が残されており、トム・ヒッカスリフトの棺の蓋とも言われてきましたが、彫刻が資料に伝わる内容と異なること、風化した石に残る十字架の彫刻飾りは、テンプル騎士団員が埋葬されたことを示すものであることなどから、現在では1191年にシリアのアーカー(Acre, Syria)で戦死したとされる十字軍の騎士、フレデリック・ド・ティルニー卿(Sir Frederick de Tilney)の棺の蓋であると考えられています。ティルニー卿の詳細は省きますが、彼はこの地域で多くの領主の地位に就いた一族の子孫で、長身で力強く「勇敢な才能」で名声を博した英雄的な騎士であり、歴史上実際に大男だった人物として記録が残されているようなのです。そのためフレデリック・ド・ティルニー卿(Sir Frederick de Tilney)がトム・ヒッカスリフトのモデルとなったのではないかと考える研究家もいます。

確かに伝承は残されています。墓石の噂もあった。話にまつわる石も存在する。ですが、それをトム・ヒッカスリフトのものとして裏付ける証拠は何も残されていないんですね。実際、トム・ヒッカスリフトのお話は、何年もかけてさまざまなエピソードが加えられ、肉付けされてきました。本当はフレデリック・ド・ティルニー卿がモデルだったかもしれない。あるいはロビン・フッドのように、あくまで何人かの人物にまつわる伝承が合わさって形成されたかもしれない。あるいは土地の共有権等をめぐり活躍した人物がいたのかもしれない。あるいは一見無関係とさえ思われるような物事や出来事が偶然にも重なり合って巨人トム・ヒッカスリフトという人物像が生まれたのかもしれない。トム・ヒッカスリフトが誰だったのかは分かりませんが、実在を裏付ける確かな証拠は存在しなくても、煙のないところに火は立たないと言うように、様々な武勇伝が伝わっていることから、そのような英雄的な人物が存在したのは本当なんだろうなと思える物語でした。

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